| 写真 | タイトル | 説明 | 登録日 |
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1 | | 信州上田学2023/地域キュレーションVol.1 | 長野大学講義科目「信州上田学」(2023年度後期)を受講した学生たち(主に新入生が対象、3学部横断)の「地域キュレーション」(地域を探究しアウトプットする学び)のアウトカム集です。講義内容は「信州上田学2023①~④地域キュレーション」をご参照ください。
「学生による地域キュレーション2023(信州上田学A受講生)」それぞれのマイテーマにリンクしています。[ Vol.1 | Vol.2 ]
No. ニックネーム/探究テーマ
探究のねらい
- こぶた/別所を盛り上げるには
サークルの関係で別所に行く機会が多々あるが、別所の魅力にまだ自分自身
| 2024-02-16 |
2 | | 舌喰池 | 日本遺産の「塩田平のため池群」の一つである。年間降水量が全国で最も少ない上田市は、農業用水を確保するためにため池を100か所以上作った。そのうちの一つが舌喰池である。貯水量は、138,000㎥、満水面積は、61,400㎡、堤高は7.0mである。舌喰池周辺の水田では、上田藩で作られる米の約半分が作られ、他にも雨乞いをする儀式の場としても使われた。舌喰池の名前の由来の一つとして、ある昔話が関係している。昔この池が造られた頃、土手から水が漏れて、十分に水を溜めることができなかった。そこで池の改修をするにあたり、土手に、生きた人を土中に埋めて祈るという「人柱」を入れなければ水が溜まらないという話があった。
くじ引きで決められたある娘さんは、日夜悲しみに明け暮れていたが、人柱に立つ前の晩、身の不運を嘆いて舌 | 2024-02-13 |
3 | | 男池、女池 | 上田にある殆どのため池が戦国時代から江戸時代に作られた物である。男池、女池は江戸時代の仙石氏が上田を治めているときに作られた。次に男池の貯水量は約五万㎥で、満水面積は約二万六百㎡。一方で女池の貯水量は約一万八千㎥で、満水面積は約八千八百㎡。男池と女池を比較してみると、男池の方が貯水できる水の量が多い。現在は農業用水として使用されており、隣の産川から池に貯水されている。 | 2024-01-31 |
4 | | 別所 part5 | 私は、別所を盛り上げるためにできることとして、前回までに、別所で行われている観光客を呼び込むことが出来る行事や、イベントなどみんなに知っていただきたいものを紹介してきた。
そして、今回は別所で行った農業活動について紹介する。
この農業の活動は、ぜひ学生に体験して頂きたいと思う。別所で、私はサークルで貸して頂いている土地で、お米を手作業で作っている。今年は、全部で約50合分のお米を作った。農家さんのお手伝いをする代わりに、自分たちの土地をいただき、体験させていただいている。農家さんの土地は、トラクターをつかったり、機会でも作業しているため、昔の人が手作業で行っていた農業の大変さや、自然と闘う農家さんの気持ちも少し感じられる。これは、都会で行うことは難しい経験になり、「せ | 2024-01-26 |
5 | | 塩田分校を訪問する | これは塩田にある分校でのインタビュー内容が記載されている史料である。記事を見ると、塩田分校では教育方針として「農村を担う中堅的人材」を育てることを掲げており、そのために高等学校での基礎的な一般教養に加え、家庭科や農業科の専門的技能を体得させること、そして一番に「人間としての素養を育て上げること」を重んじていることが読み取れる。
このことから、塩田分校では学生に対して専門的知識を持った地域に根差す人材、並びに志や人徳の高い学生を理想像としていたのではないかと考察した。
▼この記事は以下から参照できます。
#1192 『西塩田公報』第66号(1953年3月5日)2頁 | 2024-01-23 |
6 | | 上田地域の高校の蚕産業についての歴史 | 上田市にある上田東高等学校。旧小県蚕業学校とも言い、農業課程・林業課程・蚕業課程がありました。
学校の校内には蚕業学校時代をしのぶ、しだれ桑が植えられています。さらに、爆撃の際に黒ずみになった欅の痕跡が今も残っています。
そして、この学校の有名な人といえば鈴木敏文さんです。
鈴木敏文さんは、坂城町の生まれで、小県蚕業学校の出身です。また、セブンーイレブンの元社長でもあります。鈴木社長は、創立120周年の時には「変化対応」というメッセージを贈っており、今でも石碑に刻まれています。
創立130周年では、新型コロナウイルスの影響でオンライン開催になりましたが、実際に貴重なお話を聞かせていただきました。
その際、「この学校はとても長い歴史があります。」と言い、実際に学生時代に経験したことを | 2024-01-23 |
7 | | 稲わら焼きの風景2013/11/22 | 戦場の煙ではありません。お間違えなく!
塩田平のため池・舌喰池に近い金井バス停付近の棚田から稲わら焼きの煙が立ち上っています。棚田の段々の土手、集落の風景が煙に遮られ、さんさんと降り注ぐ陽光に煙が映えています。22世紀に残したい稲わら焼きのイチオシ風景です。 | 2023-12-22 |
8 | | 稲わら焼きの風景2013/10/04 | 稲わら焼きの風景。収穫の秋、稲刈りが済んだ後の田んぼで普通に見られる光景です。田んぼの稲を焼く風習は昔から連綿と続いていたと思われますが、農業の機械化や地域の都市化が進んだ現代において、ここ塩田平の稲わら焼きの風景はかけがえのないものです。各所に煙が立ち上り、この季節ならではの風情を醸し出しています。 | 2023-12-22 |
9 | | 論説“一九五六年”の課題(『西塩田公報』第100号(1956年1月1日)1頁) | 今年は農業経営のかわりめだから、気を抜いていてはいけないと忠告している。新年一発目の新聞で酒に酔っててもいいが、今後のことをしっかり考えてほしいといわれ、気持ちの引き締まる思いがした。
▼この記事は以下から参照できます。
#1327 『西塩田公報』第100号(1956年1月1日)1頁 | 2023-12-14 |
10 | | 『西塩田時報Vol.1』(戦前編1923~1943年) | 1. 金融機関が保管サービスについて説明しており、特に武保の金融組合が米の貸し付けを行っていることが述べられています。金利や条件についても触れられています。
2. 産業組合に関する情報が含まれています。特に、農業における品種や飼料についての指針や注意が述べられています。
3. 特に米の保管についての重要なポイントが述べられています。新聞における注意喚起もあります。
4. 学校の最新情報や行事に関する内容が含まれています。書週間や学校の成績、講堂集合の予定などが触れられています。
5. 民精神作興週間に関する呼びかけやイベントの告知があります。
6. 鮮魚に関する情報があり、特に良質な大豆や小麦、骨などの原料について触れられています。
7. 毎日が祝日になることが一時的であるが、それを抜けて平和であることへ | 2023-12-07 |
11 | | 男池 | 日本遺産の「塩田平のため池群」の一つである。上田市の池は戦国時代から昭和時代までの間に数多く作られてきた。その背景には、上田地域が全国でも有数の寡雨地域であることがある。一方、雨が少ないため晴天の日が多く、気温も低すぎることは無かった。したがって、肥沃な土地で農業用水を確保さえすれば、水田農業に適した土地であった。農民たちはため池を造成し、男池も農業用水確保のために作られた。男池は、江戸時代に仙石氏が統治していた時に作られたため池であるとされている。江戸時代では、ため池の存在は重要であったため上田藩をあげて作られた。現在の男池は、農業用水として使われ、産川からため池に水を貯水している。男池の貯水量は約50000㎥で、満水面積は約20600㎡、堤高は8mである。
男池が作られた背景を知る | 2023-11-30 |
12 | | 尾根川 | 大学前~下之郷付近を流れる川。大学前駅の辺りで産川と合流する。
周辺の土地と比べて低いところを流れているため、農業用水には使いにくそうだ。ポンプやパイプと思われるものはあり、農業用水に使う場合はそれらを通すのだろう。排水口のようなものは高い位置にあるため、排水の放出先にも使われるようだ。 | 2023-11-07 |
13 | | 学生の地域探究テーマ2023 | 【第3回課題10/19】信州上田学2023/マイサイトと探究テーマ
▼社会福祉学部学生
1 長野県の自然
2 蚕都上田はどのようにして生まれたか
3 上田の地域の特徴から、福祉に活用できる社会資源を考える。
4 上田にある文化財について
5 上田市の特産物にはなにがあるのか、特産物と気候や地形との関係、特産物を使った料理について
6 上田市の食とそこから見る地域の特性
7 上田城の季節による変化
8 食と福祉(飲食店と社会福祉施設、養護施設との連携)
9 真田幸村と上田の関わり
10 なぜ上田には晴れが多いのか
11 別所温泉の自然風景とその風景に関する歴史学的・地理学的な知識
12 上田と福祉について
13 上田市内の地区の名前の由来について
14 上田市は子育てや生活をする上で、便利な地なのかどうか
15 上田市の子ど | 2023-10-29 |
14 | | 小諸の絵 | 1940年から1945年の間に描かれた小諸の家である、文書資料ではないがこの絵からも当時の暮らしを感じることが出来る。例えば屋根は瓦の物から藁の部分まであり、一階は瓦になっているため人が一階で暮らし、二階の藁の屋根では蚕を飼っていたことが推察される。また農業の道具もたくさん見受けれることから小諸市は昔から養蚕業と農業が盛んだったことが予測できる。
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/art_museum/04J1000000039 | 2023-02-08 |
15 | | 農事メモ | 農業で大切になるポイントや注意すること、栽培方法などがメモとしてまとめられている。
「馬鈴薯の収穫は必ず乾燥した時に実施して下さい」など、農業初めての人でも読んだら分かりやすく、ここまで詳しく説明する広報は見たことがないため、面白いと感じた。
「西塩田公報」第59号 昭和27年7月5日
https://www.mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/vol2.pdf | 2023-02-08 |
16 | | 上田市で農地を所有しながら暮らすには | 上田市は自然が豊かで農地が沢山あるのになぜか農業が盛んではないのだろうか。
我が家にも農地があるが半分以上がの農業放棄地となっている。農業放棄地が発生してしまっていることが農業が盛んになっていくうえで邪魔になっているのではないだろうか。
農業放棄地が増えていく原因の一つに農地に関する法律があると考えた。そこで農地法を調べたところいくつかの問題点が見つかった。
・農地の売買や貸借に農地の所在する市町村の農業委員会の許可が必要な点。
・農地売買の許可を得るのに農地の権利取得後の経営面積に原則として都府県50a、北海道は2ha以上になること(例外あり)
・農地を取得する個人またはその家族等が取得後に行う農業事業に必要な農作業に常時従事しないと農地を買えないこと
これら3つが大きな問題と | 2023-01-30 |
17 | | 戦前長野の農業形態⑥ | 当時に比べると長野でのイチゴは果物の中だとあまりメジャーではないように思われるが、輸送手段や保存方法が当時に比べると発達したため、他地域での生産もさかんになったからではないかと考える。
戦前の長野での農業について共通点も多く見られたが、現在と違う点も多くとても興味深いと感じた。農業に関して調べるうちにジャムのルーツにも触れることができ有意義な学習であった。 | 2023-01-28 |
18 | | 戦前長野の農業形態⑤ | 栽培されたイチゴは鮮度の問題から近郊には青果として、遠方には貯蔵できる形としてジャムにすることで販売していたようである。
この資料に加え、長野のジャムに関して調べてみたとこ
ろ、明治10年新宿で初めて日本でジャムが作られ、その四年後に企業として初めてジャムが作られた地が長野であり、長野は日本のジャム生産の先駆的な地のようだ。
信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/629fa7724c1f448586380935d789259b.jp2/651,655,2070,3016/333,485/0/default.jpg
「日本におけるジャムの歴史」
http://www.sudo-jam.co.jp/tokusyu/20140210 | 2023-01-28 |
19 | | 戦前長野の農業形態④ | 次に紹介したいのは私がこの資料を閲覧していて一番興味を引かれたイチゴについてである。現在の長野ではあまりメジャーな果物ではないように思われるが、資料にあるように当時、長野で栽培されたイチゴはイチゴジャムとして使われていたようである。 | 2023-01-28 |
20 | | 戦前長野の農業形態③ | こちらは大麻に関する記載である。大麻といっても工芸作物の麻のことであり、麻袋や畳に使うようである。栽培方法や適する条件等も記載されている。栽培に関する条件は比較的緩いようだ。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/f65cc121f9b64b6cbf76b0a27d25cebd.jp2/493,541,4771,3136/852,560/0/default.jpg | 2023-01-28 |
21 | | 戦前長野の農業形態② | まず始めに触れたいのが稲作である。資料に記載されているように川による豊富な水源、肥沃な土、夏期に暖かく、基本的に冷涼な気候であることから稲作が行われていたことがわかる。稲作に適する条件が現代と同じであり、当時から盛んに行われていたことがわかる。左のデータには作付量、反別、収穫高などが記載されている。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/75b5398006c44bf0b725eedac59bc2f7.jp2/620,642,1725,3035/308,542/0/default.jpg | 2023-01-28 |
22 | | 戦前長野の農業形態① | 信州デジタルコモンズにて見つけた「信農産業誌 完」には戦前、およそ明治20年~40年辺りの長野の農業に関しての特徴や収穫高のようなデータが記載されている。現在の農業形態と比べると違った面が見られる。興味深いものがいくつかあったのでピックアップしていきたい。 | 2023-01-26 |
23 | | 金井正について | 金井正は、明治19年神川村国分に、金井家の三男として生まれました。県立長野中学校(現上田高等学校)に入学。家庭の事情から家督を継ぎ、父が局長を務める国分郵便局の事務員として勤務しました。その一方で哲学者西田幾多郎の存在を知り、哲学に関心を高め、神川読書会を企画したり同人雑誌の創刊し、社会主義による啓蒙を図りました。山本鼎がヨーロッパ留学から戻り、訪ね、児童自由画教育と農民美術運動に感銘を受け、協力を約束し、鼎による講演会「児童自由画の奨励について」を企画。続いて「第1回児童自由画展」を開催し、予想以上の成功を収めました。
農民美術運動については、鼎と連名で日本農民美術建業の趣意書を作成して、神川村の人々に働きかけました。大正8年に第1回農民美術練習所を神川小学校で開設し、 | 2023-01-25 |
24 | | 農業放棄地を減らしていくためには | 上田市には農地が沢山あるのになぜ農業が盛んではないのだろうか。
我が家にも農地があるが現在農業をしているのは所有する農地の半分にも見たいない程度である。このような農業放棄地が発生してしまっていることが農業が盛んになっていくうえで邪魔になっているのではないだろうか。
農業放棄地が増えていく原因の一つに農地に関する法律があると考えた。そこで農地法を調べたところいくつかの問題点が見つかった。
・農地の売買や貸借に農地の所在する市町村の農業委員会の許可が必要な点。
・農地売買の許可を得るのに農地の権利取得後の経営面積に原則として都府県50a北海道は2ha以上になること(例外あり)
・農地を取得する個人またはその家族等が取得後に行う農業事業に必要な農作業に常時従事しないと農地を買えないこ | 2023-01-19 |
25 | | 前川ゼミ まとめ | 課題の提起 大学に進学するにあたり塩田平のアパートを借りた。半年ほど生活してみて上田市の中心地や海野町商店街と比べてあまり生活しやすいとは言えなかったため。
なぜそうなのか 田んぼやため池が多いため土地が確保できないので生活に必要な施設などの距離が遠い。
探求の目標 どのようにすればもっと住みやすい街にできるのかを見つける
「塩田平を住みやすい街に」
塩田平は上田駅周辺と比べて非常に住みにくく感じた。スーパーなども遠く24時間営業ではないし、スポーツ用品店などもアリオまだ行かないとない。それなのに電車の本数も少なくバスもないためどこに行くにしても車が必要となってくる。そのためまだ免許や車を持っていない人や免許を返納したお年寄りなどにとっては非常に生活しずらくなっていると思 | 2023-01-19 |
26 | | 農村のテトメよ | 男尊女卑が激しく当時は束縛が多かった女性だが農業をすることには何の束縛はないという当時の風習が分かるという部分が興味深く面白いです。
▼この記事は以下から参照できます。
#364 #364 『西塩田時報』第84号(1930年11月1日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0364.jpg | 2022-12-26 |
27 | | 農業議員選挙(『西塩田時報』第82号、1954年) | 昔は農業議員選挙というものがあったことに驚きました。さらに今では選挙はCMやチラシなどで目にすることが多いですが、かつては時報でそれを伝えていたことにも驚きました。
▼この記事は以下から参照できます。
#1254 『西塩田公報』第82号(1954年7月5日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1254.jpg | 2022-12-26 |
28 | | 上田市の農業 | 上田市は自然が沢山あるという印象を持つ人が多いだろう。しかし自然は豊かだが農業は盛んではない。農家はいるが高齢者であったり農業はしていても商売につながっていなかったりすることが多い。また農地はあるが農業をしていないという人もいる。我が家もこのパターンに当てはまる。
農業放棄地が発生する問題はいくつかの原因があると考えられる。高齢化による農家の減少や農業では稼いでいくことが難しく廃業してしまうなどがあげられる。
上田市で実際に農地をどのように活用しているかを調べる。シャトー・メルシャン椀子ワイナリーや稲倉の棚田や農園として商売をしている農家などを調べてみる。
上田市でどのような農地活用が行われているのか。上田市でよく育てられている作物、またそれらをどうやって利益に結びつけて | 2022-12-15 |
29 | | 養蚕の証 | 祖父母の家では農業の一環として養蚕が行われていた。当時使用していた道具が今も残されているそうなので取材もかねて訪問してみることにした。
一枚目の写真は糸を巻き付けておくもので内側には軸となる棒を通すための穴が開いている。
二枚目の写真は蚕の排せつ物を処理するための道具で蚕のいる台に敷き上に桑の実を置くことで登ってくるらしい
三、四、五、六枚目は桑を採るための道具で木を切るためのものや桑を木から外すための道具がある。
七、八枚目は実際に養蚕が行われていた建物で側面の通気口や天井に回転まぶしをぶら下げるための針金などが残されている。 | 2022-11-30 |
30 | | 老農船津伝次平 | 船津伝次平は日本三老農の一人で養蚕の基本である桑栽培を研究し「桑苗簾伏法」を出版した。また、養蚕に限らず農業の近代化に貢献しており東京大学農学部(駒場農学校)の講師として農学の指導をしていた。 | 2022-11-30 |
31 | | 旧小県蚕業学校(現上田東高校) | 明治25年1892年に小県蚕業学校が蚕業学校として全国に先駆けて設立された。当時は上田町の丸堀の民家を校舎にして開校した。大正8年には皇太子様が来校されていることから当時でも注目されていた学校なのだと考えた。昭和19年12月9日に戦災によって本館の建物外10棟、1093坪を焼失してしまった。その後昭和21年以降、林業科、農業科、蚕業科を置いた上田農業学校となった。昭和35年には2度目の火災にあい、建物は全半焼、1237坪を焼失した。昭和37年には現在の名である長野県上田東高等学校となる。翌年昭和38年には蚕業科の生徒募集停止され、その後続々と農業科、林業科、家政科が廃止され、普通科のみの学校となった。 | 2022-11-29 |
32 | | 信州上田なないろ農産物ブランドブック | 信州上田なないろ農産物とは
多様な標高と地質を有する上田市の気候風土が生み出す、高品質で多種多様な農産物を「信州上田なないろ農産物」と銘打ちブランド化を推進している。
信州上田なないろ農産物ブランドブックでは「赤・黄・緑・白・紫・茶・黒」の七色にわけ、その種類や特徴、生産者の声を紹介。
様々な場面に携わる方々の背景や想いを取り上げ、上田市の農業を支える人たちの様々なストーリーを伝えている。
〈参考〉
・「ウェブブック信州上田なないろ農産物ブランドブック」
https://www.city.ueda.nagano.jp/book/list/book5.html
2022年11月1日最終閲覧 | 2022-11-01 |
33 | | 上田の夏 | 生育の進む稲
背後には分厚い雲
真夏の上田 | 2022-10-13 |
34 | | 現代に繋がる主導的産業の偏移について | 幕末の開港によって長野県は地域経済を世界につなげることになった。そこで長野県を国外まで広げる一翼を担ったのは生糸でした。
長野県は外国との交流が始まると、器械製糸を取り入れ、養蚕や蚕種業の技術開発や改良に力を入れました。それで、蚕糸王国と呼ばれることになったわけです。長野県の近代のあゆみは養蚕や製糸業の盛衰に左右され長野県の命綱は、蚕糸業であったと断言して過言ではありません。
長野県の製糸業は県外や外国にまで進出し、日本の製糸の中心となります。なので、長野県内のいたるところの農家では養蚕が営まれました。
蚕糸業は大正時代から昭和初年にかけて全盛期を迎えますが、1929年(昭和4)からの世界大恐慌の影響をうけ、製糸業を営む会社の倒産が相次ぎ、繭価の価値の大暴落のため生活を養蚕に | 2022-08-10 |
35 | | 当研究会発行のブックレット バックナンバー | 号によっては品切れがあります。上田市内の書店でお買い求めください。または上田小県近現代史研究会事務局へお申込みください(下記に住所記載)。
号数 ブックレットタイトル 著者 発行年月
1 『深町広子と上田自由大学』上原民恵[著] 1995.03,2000[改訂]【品切れ】
2 『上田小県地方に空襲があった』新津新生[著] 1996.07,2005[改訂]【品切れ】
2 『上田小県地方に空襲があった 増補改訂版』新津新生[著] 2005.07【品切れ】
3 『信州の鎌倉 別所温泉―歴史と文化―』上田小県近現代史研究会[編] 1997.10,1998[改訂]【品切れ】
4 『金 | 2022-03-06 |
36 | | 塩田平と塩沢を比較して | 塩田平と塩沢を比較して、もともと塩田、塩沢がもつ地形や気候などが農業、工業に影響していることがわかった。特に農業は塩田には、気候に影響されたため池灌漑があったり、塩沢には豪雪地帯であることを利用した豊富な水資源の利用がある事がわかった。
この比較をすることで、塩田についてさらに深く知ることができ、どのような環境が住んでいる人にどのような影響を与えているかを知れてよかった。 | 2022-02-02 |
37 | | 塩沢 農業 | 塩田平と似て、稲作が盛んである。山沿いには畑作も多少見ることができる。塩沢の農業の特徴は何より、稲作がとても盛んであることだ。塩沢は日本有数の豪雪地帯であり、稲作の時期は雪解け水が供給される。塩田平とは違い、ため池はほとんどなく、灌漑の方法としては用水路などで灌漑がされている。
写真をみると、農業用に整備された用水路が見えることがわかる。 | 2022-02-02 |
38 | | 6 松根油の生産について | 画像は「長崎ディープブログ「長崎街道11~松並木と松根油と」」から転載
http://blog.nadeg.jp/?eid=43&imageviewer&image=20171028_726412.jpg
年表・数字からひもといた中で、特に「航空燃料用の松根油」の生産に関して注目したいと感じた。
興味を感じた理由は下記の二つである。
①自分の生まれ育った地域、しかも長野県の山の中で航空機の燃料を作っていたことを全く知らなかった。日本の山奥で航空燃料を生産するに至るまでに、どのような経緯があったのか調べたい。
②のちに記すが、坂井村誌内の記述によると、私の実家の近く、小学校の通学路の橋の袂で生産を行っていたらしい。そのためより身近に感じた。
村誌内の記述
下記は坂井村誌内に記述されている、松根油に関する記述である。
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松根油
昭和20年に入ると、松根 | 2022-01-29 |
39 | | 満州移民② | こちらの記事は先ほど紹介した小林信悟さんの満州での生活を記したものである。
これを見る限り、渡った先では農耕班として農業をしており、食事に関しても毎日白いお米を食べることができたり、週一でカレーを食べていたりと充実しているように見えた。休日に関しては、月に2~3回と現代と比べればとても少なく感じた。こちらの資料も実際の生活状況が伺える貴重な資料であると感じた。 | 2022-01-27 |
40 | | ため池の必要性 | そもそもなぜ塩田平にはため池が必要だったのでしょうか。それは、全国でも有数の寡雨地域であったからです。雨が少なく年間の降水量は890mmであり、稲作をするときに必要と言われる降水量である1000mmを下回ります。そのため、稲作をするためには厳しい土地でした。幸い、土壌は元々塩田平は湖であったことなどから肥沃だったため、水が足りないという課題を灌漑で解決すれば稲作ができました。用水路を使った灌漑などが長野では多いですが、塩田平を流れる川は、どれもたくさんの農地を潤すほどの水量はありませんでした。そこで、塩田平ではため池灌漑という長野県では珍しい灌漑方法がとられています。
参考:ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
| 2022-01-26 |
41 | | 山田池(やまだいけ) | 山田池は1938年に沢山池が造られるまで塩田平一の大きなため池だった。
池の歴史は古いため増築年は不詳だが、1650年にそれまで並んでいた2つの池を1つにまとめ現在の池ができた。
この池では、1840年頃に養鯉を試みたり、上田藩の事業として薬草の栽培をしたりしていた。古くから農業用水の確保としてだけでなく、様々なことに利用されていたことが分かる。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php | 2022-01-26 |
42 | | ため池の歴史② | ため池は農業用水を確保するためだけに使われていたと思っていたが、歴史を遡るとそれ以外にも利用されてきた歴史があった。
例として挙げられるのは食用鯉の養殖である。塩田地域のため池は水温が高く、養蚕が盛んであったことから、鯉の餌としてたんぱく質の豊富な蚕の蛹が多く採れた。このような地域特徴から鯉の養殖に使われてたが、1980年代末には鯉の養殖は衰退し、今はフナの養殖に非常に少数のため池が使われているだけである。
〈参考文献〉
長野県上田市塩田地域におけるため池群の維持管理と存続
https://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/nenpo/43/08.pdf | 2022-01-26 |
43 | | ため池の数 | 塩田平のため池数は、個人利用の小池まで含めると200余りあり、これらが拡大または新たに構築されたことで、しだいに大規模な池に統合された。
昭和50年代の「溜池施設台帳」には、東塩田112、富士山5、中塩田10、西塩田10、別所1の141池が登録されている。
塩田は地元よりもため池が多い印象だったが、141ものため池があるのは予想外だった。雨量の少ない地域であるため、多くのため池が塩田の農業には必要なのだろう。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php | 2022-01-26 |
44 | | ため池の歴史① | 塩田には多くのため池がみられる。その理由は降水量と土地が関係している。上田市は年間降水量が全国で最も少なく、その中でも塩田平は最少の地域であった。しかし、気温も低すぎず肥沃な土地で、水田農業に最適の地域だった。そこで農民は農業用水を確保するためにため池を作ることにしたのだ。この地域の土壌が粘土質で、ため池の土地を作るのに好都合だったことも影響していたのだろう。
〈参考文献〉
信州上田の里 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php | 2022-01-26 |
45 | | 塩田平 農業 | 主に稲作が盛んで多くの田が見られる。しかし、一様にただけでなく畑作も見られる。また、高地には果樹栽培も見られる。塩田平の農業の特徴は、なにより多くのため池による灌漑であるだろう。塩田平という地域は日本でも有数の寡雨地域である。この地図は、塩田平の地形図と土地利用についての地図である。多くのため池が確認でき、ため池の周りでは稲作、山の麓に行くにつれ畑作が多くなっていることが読み取れる。
参考・出典
地理院地図Vector[国土地理院]地形と土地利用
(参照 2021/12/20) | 2021-12-21 |
46 | | 2019年台風19号による被害 長沼地区 | 2019年(令和元年)10月、発生した台風19号により千曲川堤防が決壊し、甚大な浸水被害が生じた。長野市内の総浸水範囲は1541haにも上り、これは東京ドーム320個以上にも及ぶ範囲であった(うち長沼地区周辺で934ha)。また、市の農業における被害の総額は約200億円にもなり、りんごを始めとする多くの農産物の収穫時期と重なり被害が大きくなった。
長沼地区はりんごの産地として栄えており、今回の災害においては特に被害を大きく受けた地域でもあった。 | 2021-12-13 |
47 | | 山居倉庫 | 米どころ庄内に1893年に建てられた米保管倉庫。
NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケ地にもなった。
現在も現役で利用されている農業倉庫で、2021年3月26日に国指定史跡に認定された。
美しいケヤキが構える、ケヤキ並木も観光スポットとして有名だ。 | 2021-05-05 |
48 | | 河童除けのお地蔵様 | 住宅街の一角に、大きな欅と祠があって一体のお地蔵様が祀られている。実はこのお地蔵様、河童除けのお地蔵様なのである。
妖怪がいるかいないかの議論はさておき、この上田という地域は降水量が少なく、田んぼにはため池の水を使う。現にため池がたくさんあり農業用の用水路もたくさんある。子どもが誤って落ちる、などの被害が頻繁にあったということは容易に想像ができる。
今日も近くで遊ぶ子供たちを守りながら、お地蔵様はひっそりとたたずんでいる。 | 2021-05-05 |
49 | | 野沢菜漬け | 野沢菜の発祥は、一説には野沢温泉村にある健命寺の8代目住職が宝歴6年(1756年)に京都から持ち帰った天王寺かぶの種を寺畠にまいた際、その天王寺かぶの種から違った形のかぶ菜ができ、その後、系統選抜をして育てたものが最初とされていましたが、
この説は近年の研究で、天王寺かぶの系統ではないというDNA鑑定の結果が出ており、かぶに由来する別の変種と考えられています。
野沢菜漬けの材料
野沢菜80g、塩2.5~2.8kg、醤油1.8L、酒または焼酎1.8L、だし昆布、唐辛子
一般的な作り方としては、洗う、塩水に漬けるを繰り返しその後発酵・熟成させると出来上がるようです。
漬けて2~3週間後から食べられますが味の安定は1か月かかるそうです。
参考文献:「つけものの味ふるさとの味」長野県農業改良協会、「信州の発酵食」小泉武 | 2021-02-10 |
50 | | 第二次農地改革に就て(『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁) | 農地改革に関する記事。
戦後日本で行われた政策のひとつである農地改革の実際の内容を見て取れる。
これにより土地を得た人と取り上げられた人がいることが良くわかる。
農地委員か地方長官の許可がないと取得・取り上げが行えず行政の管理下に置かれている。
▼この記事は以下から参照できます。
#963 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁 | 2021-02-10 |
51 | | 本秋の麥作に就て(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁) | 麥作に関する記事。
各農家へのお願いが書かれている。
食糧危機ながらも乗り越え、稲作も順調に進んだとあり、食糧不足に光明をもった様子。
肥料不足は続いている模様。
▼この記事は以下から参照できます。
#955 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁 | 2021-02-10 |
52 | | 事業部の構想(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁) | 戦後、西塩田青年団報となった。
「事業部の構想」の記事。
終戦後の復興に向けた心構えや意気込みが見て取れる。
食糧不足も続いており、遊休土地の利用や未利用資源の活用などぎりぎりの状況である。
▼この記事は以下から参照できます。
#952 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁 | 2021-02-10 |
53 | | 農會欄(『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日1頁) | 農會欄の記事。
戦況の激化に伴い、輸送船や国内外の食糧が不足していること。増産のための肥料・資材がなくそれでも増産をしなければならないという苦しさが見て取れる。
▼この記事は以下から参照できます。
#949 『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日)1頁 | 2021-02-10 |
54 | | 前川ゼミナール活動報告 | ・2020年度の前川ゼミで私は情報発信と地域農業の活性化をテーマに活動してきました。その活動の中で一度自分で自身が経営する農産の会社のホームページを作るというシミュレーションを行い、このサイト作りの知識を地域農業の活性化の情報発信の訳にたてようということを行いました。この写真はワードプレスを用いて作成したサイトの一部のスクリーンショットです。
サイトのリンク→http://d-commons.net/sugi/ | 2021-02-01 |
55 | | チョロギのビート漬 | チョロギのビート漬は、上田盆地で縁起物としてお正月の食卓に並ぶものの一つだそうで長老喜とも呼ばれています。
材料はチョロギ、塩、食用ビート、砂糖、酢です。
水洗いしたチョロギに塩をまぶし二日間下漬けした後、ビートと交互に重ね、砂糖と酢で混ぜ合わせたものを注ぎ入れ、20日程漬けると食べごろになるお漬物の一種だそうです。
参考:「信州の味ふるさと料理三〇〇種」長野県農業改良協会 | 2021-01-27 |
56 | | 翼賛壮年圑・青少年圑(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁) | 翼賛壮年圑:緊急食糧增産確保並労力対策協議会の記事。食糧増産のために中学校から動員するなどの内容。
青少年圑:食糧增産運動の記事。
緊急と名付けられるほどのひっ迫している状態であると考えられ、荒廃地を改善し生産しているがそれでも不足しているのが伝わる。
▼この記事は以下から参照できます。
#947 『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁 | 2021-01-27 |
57 | | 九月の增産暦(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁) | 農會欄の記事。
以前の記事にも記載されていた気象状況の悪さが影響している。作物の病気が発生しており食糧不足の中でとても厳しい状況になっていると考えられる。
また肥料の不足も起きておりやるべき事が多くなっていると思われる。
▼この記事は以下から参照できます。
#946 『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁 | 2021-01-27 |
58 | | 增産の暦(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁) | 生産に関する水利や代作などについての記事。
植付不能地があれば代作の作付や潅水せず抑制はなしにするなどひたすら食糧を作ることをしなければないような状況になっていることが見て取れる。
▼この記事は以下から参照できます。
#942 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁 | 2021-01-27 |
59 | | 六月の常會(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁) | 食糧增産國民皆働ノ件の記事。
中学校や市街地、工場などからも食糧増産のために人が集められていることが分かる。
▼この記事は以下から参照できます。
#941 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁 | 2021-01-27 |
60 | | 農會欄(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁) | 食糧増産のための優良種苗の育成などについての記事。
“本年の不順な氣候は全く未曾有のこと…”とあり気候が悪く食糧生産に懸念があることが示唆されている。
▼この記事は以下から参照できます。
#938 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁 | 2021-01-27 |
61 | | 五月の常會(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁) | 農繁期の食糧生産についての記事。
麥(むぎ)や甘藷(かんしょ=さつまいも)の生産量を増やし、農家だけでなく皆で協力して食糧戦に勝とうという内容。
▼この記事は以下から参照できます。
#937 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁 | 2021-01-27 |
62 | | 本村供米-九割-(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁) | 公報左下にあった呼びかけ。
3月であるため米の生産はあまりなく切り詰めて供米していると考えられる。
また呼びかけの内容から国のためと戦争協力していたことが窺える。
▼この記事は以下から参照できます。
#934 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁 | 2021-01-27 |
63 | | 農會欄(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁) | 農會欄の記事。
太平洋戦争の開戦から二年三か月ほど経過し、日中戦争からのワード“増産”は変わらないが“決戦”というワードが出始めてきた。
「全村民國民學校を總動員して…」とい内容もあり人手不足も見られる。
▼この記事は以下から参照できます。
#932 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁 | 2021-01-27 |
64 | | 農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁) | 農會欄での“昭和十七年度農業增産に就て”という太平洋戦争の始まりによる食糧確保についての記事。
アメリカとの戦争がはじまり農民には食糧自給から国家食糧の確保という立場に変わり今後の生活が厳しくなっていくことを思わせる記事となっている。
▼この記事は以下から参照できます。
#924 『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁 | 2021-01-27 |
65 | | うちいれ | うちいれは(画像右)上田盆地の懐かしいふるさとの味として愛されていたようですが、地粉が手に入りにくくなったことや手間がかかることから現在は忘れられて来てしまっている料理だそうです。
材料は、小麦粉、かぼちゃ、はくさい、にんじん、だいこん、じゃがいも、煮干し、みそを使用し作られ多くの野菜が入った麺料理です。
お米の少なかった昔に夜食としてうちいれがよく食べられていたそうです。
※うちいれの写真は本に掲載されていなかったため上田市真田町にある「真田庵」で提供されているうちいれをネットから
参照URL:さなだんごの旅 真田ファンの旅づくり応援サイト
参考図書:「つけものの味ふるさとの味」長野県農業改良協会(p.342) | 2021-01-27 |
66 | | 農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁) | 農會欄における食糧增産推進講習會開催などの記事。
中国との戦争による物資不足が見え始めてきたと考えられる。
▼この記事は以下から参照できます。
#920 『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁 | 2021-01-27 |
67 | | ため池とは?何故塩田にため池が作られたのか? | 画像は上田市の「舌喰池」
ため池とは、雨量が少なく河川がない地域などで、灌漑用水を確保するために人の手によって作られた池である。また、ため池の多くは江戸時代以前に築造されたものである。
塩田に数多のため池が作られた理由も、降水量の少なさが原因である。しかし、降水量が少ないという事は、晴天の日が多いという事でもある。塩田は気温や肥沃が良好で、用水さえ確保できれば水田農業に適している土地であった。従って、農民達は塩田にため池を造成したのである。
参考文献
ため池のれきし - 信州上田|塩田の里|とっこ
ため池:農林水産省 | 2021-01-25 |
68 | | 太平洋戦争における上田地域の状況 | 上田地域は上田合戦や太平洋戦争など数々の戦いに関わっているが、とりわけ日本の総力を挙げて戦った太平洋戦争では様々なモノ・事・人に影響が出ている。そのような状況を上田地域ではどのようであったのか調査したいと思う。どんな生活だったのか、行政は何をしていたのかなど見ていき当時の戦争を考えていきたい。ネット情報や「西塩田時報」のような資料、国会図書館デジタルコレクション、上田市立公文書館などで戦争に関する資料(農業や徴兵、訓示など)を調べる予定。
「西塩田時報」を中心に調べた結果。
農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁)
農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁)
| 2020-12-21 |
69 | | 馬鹿バーガー | 馬肉文化の信州の森林、里山、農業を守り、駆除された鹿の命も大切にしようと10年以上前に開発し、イベント等で提供してきました。上田産米粉を練り込んだバンズ で、馬肉と信州産鹿肉の合挽きパティ と 直売所ならではの新鮮野菜をサンドしたハンバーガーです。
ご当地バーガーランキング第1位。 | 2020-11-17 |
70 | | 災害アーカイブ展~令和元年東日本台風から1年 | 令和元年東日本台風台風19号災害から1年目を迎えるにあたり、災害の記録や記憶を保存・継承し災害を自分事として捉え備える事を目的に「災害アーカイブ展~令和元年台風19号から1年~」が長野市役所や長野県庁、信州大学、長野駅で開催された。私は10月15日に長野市役所に訪れた際の記録をまとめていく。
令和2年9月18日現在の長野県内被害状況は、人的被害による死者が15名、重傷者14名、軽傷者136名にのぼり、住宅被害は全壊が920棟、半壊2515棟、一部損壊が3535棟にのぼる。また長野県内の被害額は、公共土木施設や都市施設、農業や商工業関係が被害の多数を占めており、被害総額は2766億7400万円にのぼる。
また信州大学で行われている災害デジタルアーカイブの記事について、かつては災害の記録や写真は図書館や博物館などが災害関連資料として記 | 2020-10-31 |
71 | | レタス鍋 | 片手鍋でも、両手鍋でも、いつもの鍋で気軽に美味しく作れます。
食卓で土鍋で煮れば、ごちそうになります!
レタス鍋 2〜3人前
レタス1〜2個
豚肉スライス 100〜250gぐらい
しょうが 1欠片 すりおろす
水 1〜2カップ
チキンコンソメ 大さじ1強
塩こしょう お好みで
ポン酢など
1.レタス、豚肉は、食べやすい大きさに切る
2.鍋、に水、コンソメ、おろしたしょうがを入れる。お好みで塩こしょうなども。
3.レタスの3分の1ぐらいを鍋に入れ、その上に豚肉を並べる。
4.レタスと豚肉を交互に重ねて入れる。レタスが入りきらないようなら後から足します。
5.蓋をして火にかける。
6.5分ぐらい煮たらようすをみて、肉が煮えていれば食べられます。かなりかさが減るので、ここでレタス足してもいいです。味見して、塩こしょうなどで整えます。
| 2020-09-04 |
72 | | レタス(畑の様子、出荷の様子) | レタス成育途中の畑の様子と、出荷の様子です。
段ボール1箱に16個入るサイズが、一番の高値で取引されます。
1日に、100〜400箱ほどを出荷します。
トラクターに積み込んで、出荷場まで運びます。
毎日、レタスがちょうどいいサイズで出荷できるように工夫しながら栽培しています。 | 2020-09-03 |
73 | | レタス(苗) | 最盛期は、3日毎に種まきをします。
3日毎の苗の成長がひと目でわかります。
種まき→育苗までは、ビニールハウスの中で行います。 | 2020-09-03 |
74 | | レタス(種まき) | 最盛期は、3日毎に種まきをします。
コーティングされた種を使っています。プラスチック容器に5000粒入りです。
ペーパーポットをパレットにセットして土を詰め→
→土に均等に穴を開け、種を穴に落とす(1マス1粒)
このペーパーポットは、400マス強。
種まき→育苗までは、ビニールハウスの中で行います。 | 2020-09-03 |
75 | | 勝俣英吉郎と上田市民大学 | 上田市の勝俣英吉郎は蚕都上田の絶頂期に当たる1922年、第2代市長となり文教に重点を置いた施策を次々と実施します。その一つに「上田市民大学」があります。勝俣自身、上田自由大学の聴講生でもあり、「先ず郷土を知れ」の信条のもと、後に『上田市史』(1940)を執筆する藤澤直枝を起用し、地域に密着した学習を奨励したと言います(下記参照)。
地域学習の原点としても顕彰される実践です。
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上田市民大学開講
上田自由大学の聴講生だった勝俣英吉郎は大正十三年七月、市長に就任すると同年九月に上田市民大学を発足させました。勝俣は図書館の充実、市営運動場建設、徴古館(現上田市立博物館)の開館など社会教育重視の施策を打ち出しましたが、市民大学開講もその一つでした。「先ず | 2020-08-25 |
76 | | 発祥地のプルーン畑 | 全国のプルーン生産量のうち61%を長野県が占めており、特に佐久地域は長野県プルーン生産の発祥地である。
この地域の昼夜の寒暖差を生かして糖度や果肉が優れたプルーンが生産されている。
7月ごろから9月末ごろにかけて出荷が行われ、乾燥品といった加工のイメージが強いものの、生のまま食べるのが一番おいしいと感じる | 2020-08-07 |
77 | | 男池(ため池) | 男池というため池。この地域は晴天の日が多い、気温が低すぎない、土地が肥沃という理由から水田農業に最適であり、最後の要素である水を確保するために「ため池」が多い。この池もその一つ。 | 2020-08-07 |
78 | | ため池:男池 | 塩田平は降水量の少ない地域で、農業用水のために水を貯めた「ため池」が多く存在しています。その中の一つの「男池」を見つけました。 | 2020-08-05 |
79 | | 中里堤 | 農業用ため池で、江戸時代の終わり頃に造られた灌漑用の堤です。湖面は台形に近い形状をしており、周囲の長さは500mあります。釣りの名所ともなっています。 | 2020-05-25 |
80 | | ずくだせ食堂 赤坂店 | 赤坂上駅から徒歩4分のところにある飲食店です。
ずくだせ食堂は、有機農業に力を入れているずくだせ農場が経営している食堂で、馬肉うどんや味噌カツが人気なお店です。
野菜たっぷりでとても健康的なメニューが多いです。
3枚目:豆腐ドリア | 2020-05-25 |
81 | | 塩田平の野焼き | 21世紀に入ってもなお続いている野焼きの文化。塩田平を一望するとそこかしこに野焼きの煙が立ち上がっています。2019/11/16は好天に恵まれ、いつもより一際多く煙が立っていました。信州上田に移り住んで以来、秋になると日々立ち上がる煙の風景に日本の原風景を感じ、現代に生きる地域の無形文化として22世紀に残してもらいたいと心惹かれてきました。以来、ずっと変わることなくその思いを持ち続けています。
野焼きは稲作という営みから派生しています。農業をする方が高齢化する中、これから20年後、30年後は、この地域の風景がどう変わっていくのだろうかという思いで、毎年、あるがままの野焼きの煙の光景を眺め続けています。 | 2020-05-23 |