突然ですが、皆さんは銭湯に行ったことはありますか?
銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。
ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。ですが最盛期には、なんと24軒もの銭湯がありました。昔は市街地ではお風呂のある家庭は一般的ではなく、農村部のお百姓さんの家、どこかの大富豪の社長さんの家など、限られた家庭にしかありませんでした。そこで、「浴場業(銭湯)」という一つの業種が確立されたんですね。今回は、上田市の銭湯を研究するための必読書、「史的ニ上田(15)上田の銭湯」という文献をご紹介します。
(画像は、文中にも登場する中央3丁目(松原町)の「竹の湯」と、最盛期の銭湯をGISアプリで国土地理院の地理院地図にプロットしたもの)
◎社会教育大学歴史研究科 飛古路(ぴっころ)の会『史的二上田(十五)上田の銭湯』
この書籍は、2000(平成12)年に発行されたいわゆる豆本の類いのものです。発行元の「社会教育大学歴史研究会飛古路の会」は「宮桜の湯」経営者への聞き込みによれば、公的な大学機関ではなく歴史を調査する有志が集まり結成した市民団体だそうです。書籍『史的ニ上田』は全部で31巻あり、このうちの第15巻が上田の銭湯に関する特集です。全54ページにわたって上田の銭湯の構造や設備、歴史などの詳細な記録があり、上田の銭湯について研究する際は欠かせない文献となっています。以下、個別の銭湯事例について、銭湯名・町名に関しては原文表記を忠実に、備考に関しては原文の情報を正確に短縮、現況・推測の欄は筆者が事実に基づいて考察し表記する。
銭湯名、町名、備考、現況と推測の順に紹介する。
・愛宕の湯 愛宕町
現況と推測:銭湯名は町名由来と推測。
・浮世の湯 鎌原
備考:銭湯名について、「かつては『豊乃湯』であったが、銭湯脇の矢出沢川にかかる『うきよばし』からとった」とある。暖簾について、「鎌原の百足屋染物店で染め、布は木綿で色は藍、文字は白抜」とある。ペンキ絵について、「1954(昭和29)年まで女湯に富士山、男湯に帆掛船のペンキ絵があったが、1955(昭和30」年新築の際下房山の角田タイル屋が貼ったタイル絵で、女湯は富士山、松、帆掛船、男湯はアルプスに湖畔の風景」とある。入浴券について、「1932(昭和7年)頃に入浴券十枚につき一枚サービスを発売したところ、他の銭湯が二枚三枚と増やし割に合わず二年ほどで止めた」とある。同書に平面図・男湯タイル絵画像・暖簾模写図記載あり。
現況と推測:浮世橋は、常磐城新地にあった遊郭に行くためには必ず渡らなければいけない橋だった。
・崖の湯 厩裏
現況と推測:銭湯名は千曲川がつくった段丘崖の地形からと推測。
・金山浴場 金山町
現況と推測:銭湯名は地名由来と推測。
・ガス風呂 北天神町
備考:銭湯名について、「瓦斯会社の敷地内に創業した為に付けた」とある。
現況と推測:ガス会社は今も同位置に残る。
・亀の湯 丸堀
現況と推測:銭湯名は縁起物由来と推測。
・松竹の湯 南天神町
現況と推測:銭湯名は縁起物由来と推測。
・島の湯 三好町
備考:「島乃湯」とも書かれる。煙突について、「コンクリートの煙突に文字が書いてありましたが、1986(昭和61)年7月に取り壊され昔の面影はない」とある。
・水道の湯 水道町
備考:銭湯名について、「水道の本管が通っていた水道町の地名から付けた」とある。
・竹の湯 松原町
備考:「竹乃湯」とも書かれる。銭湯名について、「初代細川竹太郎さんの『竹』の字を使いタイル絵も竹、以前は入口脇に竹を植えるなど竹への拘りがあった」とある。暖簾について、「布は木綿で色は藍、竹乃湯の文字は白抜、創業時入口の戸の下まである長い暖簾を掛けていたが、額に当って気持ちが悪いというお客の声をきっかけに以来暖簾は一切掛けていない」とある。煙突について、「当初土管製の煙突を二本立ててありましたが、1958(昭和33)年の台風で一部壊れてしまい現在のコンクリート製にした。薄く竹乃湯の文字が見える」とある。ペンキ絵について、「当初は東京の絵かきに依頼したが、その後は木町のヌシデン塗装に依頼した。良質のペンキで5年程持ち、現在は1949(昭和24)年改築の際、東京の業者に特注で作ってもらった青竹に見立てたタイルが浴槽の清々しさを演出する」とある。洗髪札について、「松やラワン材でできた木札であり、番台で料金と引替洗髪の際前に立て使用し帰りに返却する」とある。同書に看板画像記載あり。(ここに関しては「風呂屋のあれこれ」というコーナーで非常に詳細な記録あり、長文のため今回は省略する)
現況:2012年廃業、建物現存。現在はイベント会場として定期的に使用されている。
・だるま湯 上房山
備考:「だるまの湯」とも書かれる。暖簾について、「鍛治町の栃木屋染物店で染め、布は木綿で色は藍、文字は白抜」とある。入浴券について、「先代が1939(昭和16)年に買い取り営業を開始したが、以前売ってあった入浴券利用者が相次ぎ薪代にもならなかった」とある。同書に暖簾画像記載あり。
現況と推測:銭湯名は縁起物由来と推測。
・天神の湯 北天神町
現況と推測:銭湯名は町名由来と推測。駅前であったため旅人には重宝されたか。
・常磐の湯 本町
現況と推測:1922年の上田市街地明細図に記載があるが、本書の位置とは通りが一本異なっている。
・仲の湯 袋町
備考:銭湯名は町名由来と推測。繁華街の脇という立地、客も多かったか。
・棗の湯 鍛治町
備考:ペンキ絵について、「最後のペンキ絵を書いたのは神川の中村真弓さんで、1982(昭和57)年にある日突然電話で依頼があった、男湯は富士山と三保の松原に天女、女湯には東海道五十三次神奈川宿を描いた」とある。同書に男湯ペンキ絵模写図あり。
現況と推測:銭湯脇の蛭沢川脇に棗の木が並んでいたことが銭湯名の由来と推測。
・錦湯 錦町
現況と推測:銭湯名は町名由来と推測。
・花園の湯 花園
現況と推測:常磐城新地と呼ばれた遊郭が過去に存在、それを花園と呼びその町名由来と推測。
・松の湯 新町
現況と推測:銭湯名は縁起物由来と推測。
・丸の湯 新屋
・みどりの湯 緑が丘
備考:銭湯設置について、「1953(昭和28)年から1960(昭和35)年にかけて上田市緑が丘に県営住宅が建築されるも浴槽の設備がなかったため、緑が丘自治会が県に陳情し1963(昭和38)年に敷地内に長野県住宅供給公社によってつくられた」「中沢正尚さんは1965(昭和40)から1990(平成2)年の廃業まで県から借り受け経営していた」とある。
現況と推測:県営住宅老朽化に伴い1988(昭和63)年から1992(平成4)年にかけてユニットバス付の高層住宅に建て替え、完了後銭湯はその役目を終えた。
・宮桜の湯 常田
備考:銭湯名について、「(経営者の)宮下さんの『宮』の字と『桜』は信大の土塀の向うに桜がたくさんあった」とある。暖簾について、「開業時の暖簾は紺屋町の百足屋染物店で染め、布は木綿で色は藍、桜は花で表し赤色、その他の文字は白に染め抜かれており、1994(平成5)まで使用した」とある。同書に平面図・暖簾模写図記載あり。
現況と推測:下記「みやのゆ」が創業時に既に存在したため、単に「宮の湯」とすることはできなかった模様。
・美家の湯 常田
現況と推測:宮桜の湯経営者への聞き込みによれば、「みやのゆ」と読むとのこと。
・三好の湯 三好町
現況と推測:銭湯名は町名由来と推測。
・柳の湯 新田
備考:「柳乃湯」とも書かれる。暖簾について、「神科金剛寺近くの染物屋で染め、布は木綿で色は藍、文字は白抜、1969(昭和44)年改築後から広告入りの暖簾を入口の内側に掛けるようになった」とある。「戦後外側からの『のぞき』が相次いだ」とある。同書に看板画像・暖簾模写図記載あり。
現況と推測:銭湯名は柳の木が多い柳町の地名由来と推測。
いかがでしたでしょうか。この文献には、ここに記した内容よりももっと詳細な資料が掲載されています。また「史的ニ上田」シリーズには、上田の庶民文化について調べたデータが多く残っています(庶民文化のテーマに興味のある方はぜひ!)これらを総合的に分析して、研究に活かす必要がありそうですね。
地区コード | 上田地域(上田市) |
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管理番号 | 4 |
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カテゴリ名 | 地域めぐり・まちあるき |
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